出所:中共中央党史・文献研究院 | 著者:李穎 | 発表時間:2022-12-15
「中国共産党規約」では、「党の最高指導機関は、党の全国代表大会とそこで選出される中央委員会である」という規定がある。中国共産党全国代表大会(党大会と略称)の歴史を理解することは、中国共産党の歴史をいっそう良く、いっそう早く理解するのに役立つ。
一、党大会の役割
1921年7月に開催された第1回党大会から現在まで、中国共産党の100年余りの歴史の中で、合計20回の党大会が開催されてきた。各党大会は、当時の情勢の情勢における重要な時期に開かれ、党が新征途において、どのような旗印を掲げるか、どのような道のりを歩むか、どのような精神状態で、どのような目標に向かって前進し続けるかを明確に宣言し、そのほとんどが真に職権を履行し、重要かつ緊急の課題を研究し、正確あるいはほぼ正確な決定を下し、そのほとんどが党の発展史において重要な役割を果たした。
党大会の役割は、主に次の5つの方面がある。
(一)過去を振り返り、経験をまとめ、認識を統一する。
各党大会では、党の指導者は前回の中央委員会を代表して、2回の大会間の党と国家の活動をまとめて、大会に報告する。現存する最古の党大会報告は、1923年6月に開催された第3回党大会に作成されたものである。改革開放以来、第12回党大会から、毎回の党大会政治報告の最初部分は過去の活動に対する回顧と総括となっている。
毛沢東同志はかつて、「私は経験をまとめることによって口過ぎしている」と述べた。経験をまとめ、真理を堅持し、誤りを正すことは、中国共産党の優れた伝統と優れた活動方法である。党大会報告は、過去の活動を振り返り、総括することを最優先事項とし、中国共産党員が歴史を客観的に尊重し、仕事に対する極度の責任感を持ち、思想を統一し、力を結集することに対する深い理解を体現している。
(二)世界の情勢・国情・党内の情勢を分析・判断し、行動綱領を確定する。
党の歴史において、ほとんどの党大会は時代と発展の要請に応え、情勢の正確な分析と正確な判断に基づいて現実に即した政策を制定し、革命・建設・改革事業を強力に推進していった。新民主主義革命の時期において、第5回党大会を除いて他の党大会は情勢を正確に分析することができた。社会主義革命・建設の時期において、第8回党大会はわが国の社会主義的改造を基本的に成し遂げた後の情勢と国内の主要な矛盾について正確に判断した。改革開放と社会主義現代化建設の新時期において、第13回党大会は、「わが国が社会主義の初級段階にある」という重要な判断を下し、その後の各党大会が世界の情勢・国情・党内の情勢を分析・判断するための基礎を築いたのである。国内外情勢の深刻かつ複雑な変化に直面して、第18回党大会は小康社会の全面的な完成に科学的計画を立て、中国の特色ある社会主義の新たな勝利を勝ち取るために完全な配置を行った。第19回党大会は、中国発展の新たな歴史的位置づけと新時代における中国社会の主要な矛盾を明らかにし、新時代における中国の特色ある社会主義を堅持し発展させるための基本戦略を打ち出した。
2017年10月19日、第19回党大会が開催された後、フランス語圏の主流メディア「リベラシオン」は、「第19回党大会は、中国が今後15年から30年にかけて、新時代における中国の特色ある社会主義思想に導かれた方向に沿って前進することを示している」との署名入りの記事を掲載した。
(三)中国共産党中央指導機関が選出された。
新しい中央指導機関の選出は、各党大会の重要な議事日程である。選出された中央指導機関は、大会閉会後、2回の党大会間に全党の最高指導機関であり、党大会が制定した路線・方針・政策を貫徹・実行する全党を指導する重責を担っている。そのため、中央指導機関の選出は、中国共産党の発展にとって極めて重要な意義を持っている。そのうち、選出された中央指導機関の名称は、第1回党大会が「中央局」、第2回から第4回までの党大会が「中央執行委員会」、第5回以降の党大会が「中央委員会」となっている。
党の指導機関は民主的に選出しなければならないのは、マルクス主義政党の基本原則である。党の創立以来、中央指導機関は民主的な方法によって選出され、この選挙制度は党綱領と党規約に書かれてきた。第7回党大会を例にとると、中央指導機関の選挙は、選挙方法について繰り返し議論され、中央委員会の候補者名簿を繰り返し検討され、代表の意思を十分に尊重するという中国共産党の優れた民主的作風を十分に発揮していた。鄧穎超氏は第7回党大会の選挙について、「候補者名簿の誰かについて異なる意見があれば、それを提出すればいいし、分からないことがあれば、聞けばいい」と高く評価した。また、「この選挙方法は、高度に民主的であると同時に高度に集権化されている。大衆路線を完全に体現している。大衆の中から大衆の中へ」と述べた。
(四)中国共産党の指導思想を明確にする。
第7回党大会、第15回党大会、第16回党大会、第18回党大会、及び第19回党大会はそれぞれに、毛沢東思想、鄧小平理論、「三つの代表」重要思想、科学発展観、習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想の時代背景、理論的起源、実践的根拠、核心的意義、豊富なコンテンツ、精神的本質、理論的特色などを明らかにし、党の指導思想として確立し、党規約に明記した。この過程では、党大会がマルクス主義の中国化を推進する役割と、マルクス主義の中国化の理論的成果を昇華させる効果が十分に反映される。
党大会は、成功と失敗の両方面の経験を総括し、長期にわたる実践・探求の中で形成された中国の革命・建設・改革に関する理論的原則と経験の総括を体系化し、党の指導思想として確立し、最終的にマルクス主義の中国化の歴史的飛躍を成し遂げた。党の全国代表大会の歴史は、凝縮された党の理論的探究の歴史であり、マルクス主義の中国化を絶えず推進する歴史であり、時代と共に党の指導思想を確立する歴史であるといえる。
(五)中国共産党の自己建設を強化する。
党建設が偉大なプロジェクトであるならば、党大会はこのプロジェクトの主な建築家である。各党大会は、党建設を強化・改善するために一連の重要な思想を打ち出し、一連の重大な取り組みを展開し、党建設の方向性を指し示す。特に、党大会を通じて党規約を制定・改正し、革命・建設・改革の偉業と党建設の偉大なプロジェクトを推進する中で得た重要な実践的成果、理論的成果、制度的成果を党規約に体現し、党を統治する総定款と総規則を確立し、党の自己建設に重要な貢献をする。
第19回党大会の後、国際世論は一般的に歴史の岐路に立つ新たな出発点に立ち、中国共産党が全面的に厳格な党内統治を堅持し、党建設の偉大なプロジェクトのためにトップレベルの設計をし、中国共産党指導者の先見性と戦略的決意を反映したと考えている。ブラジルの経済学者、ブラジル中国問題研究センターのロニー・リンス主任は人民日報の取材に、「より高いレベルの党建設は、中国をより高いレベルに発展させる」と指摘した。
要するに、党大会は中国共産党が重要な歴史的節目に思想を統一し、力を結集する大会であり、全局的、戦略的、前向きの行動綱領を打ち出す大会であり、党と国家の事業が引き続き発展し、最も広範な人民の根本的利益にかかわる大会である。党大会が順調に開催されれば、党の事業が発展し、党の理論的探求が進み、党が強く建設されることは、党の歴史が何度も証明している。逆も同様である。
二、なぜ中国共産党の創立記念日は7月1日に決められたのか
党大会の歴史をいえば、歴史が始まる第1回党大会から始めるのが当然である。中国共産党の正式な成立を宣言した第1回党大会以来、中国人民は革命闘争において先進的で強力な指導力を持つようになった。今回の会議は、偉大で深遠な意義を持つものであった。
第1回党大会の閉会後、代表たちは革命活動に参加するために、各地に駆けつけた。第1回大会は、中国語の原始文献書類を一切残さず、中国共産党に採択した最初の綱領と決議は、すべて外国語から翻訳され、時間も1921年7月と表記されているものであった。
中国共産党創立初期、困難な戦争と「白色テロ」という過酷な状況下で、創立を祝う大規模で統一的なイベントを組織することも、第1回大会の正確な日付を考証する時間やエネルギーもなかった。
長征で陝西省北部に到着した紅軍は、延安を中心に徐々に強固な根拠地を築いた。1937年の盧溝橋事件(七七事変とも呼ばれる)の後、国民党と共産党は2度目の協力を実現した。1938年になると、党創立17周年を記念して、延安を中心とする抗日根拠地の多くの同志が、党の誕生日を盛大に記念するために、第1回大会に出席した毛沢東と董必武に、党大会の開催時期を尋ねた。しかし、毛沢東も董必武もはっきりと覚えていない。
毛沢東と董必武は相談して、「では、7月の初日を記念日にしよう」と答えた。その後まもなく、毛沢東が「持久戦論」の演説をした際、「7月1日は中国共産党創立17周年である」と明言した。7月1日が共産党の創立記念日として中央文書の形で公式に確認され、関連する記念活動を呼び掛けたのは、1941年6月に中央委員会から中国共産党創立20周年に関する指示が出されたことである。それ以来、7月1日を記念することは、わが党、新中国成立後のわが国の定例行事となった。つまり、7月1日は象徴的な日であり、党の実際の誕生した日ではないのである。
1970年代末までに、有名な党史専門家の邵維正教授は、代表の行方、参考できる間接的な出来事、天候、当時の文書記録などを厳密かつ慎重に考証し、第1回大会の正確な開会日が1921年7月23日であると結論した。ただし、党の創立記念日は7月1日であることを使い続ける。
三、第2回党大会で、党史上初の党規約を採択した。
1922年に、第2回党大会で採択された「中国共産党規約」は、党創立後初の党規約となった。この党規約は、党員の資格や党の規律などについて具体的に規定しており、党の自己建設を強化するうえで、きわめて重要なものである。第2回党大会の党規約は、全部で6章29条からなる条項で表現されており、各レベルの緊密な組織を確立し、党紀の強化が中心となっている。
1、党員の資格や入党の手続きについては、より詳細な規定がある。党員の資格は、「本党の党員は、国籍や性別の区別がなく、本党のマニフェスト及び規約を認め、本党に忠実に奉仕する意思を有する者は、すべて党員となる」と定められている。入党の手続きについては、「一人の党員の紹介が必要となる」、「地区及び中央執行委員会が候補者を審査・承認して初めて正式な党員となる」と定められている。
2、比較的厳密な党組織体系が初歩的に確立された。第2章の「組織」は7条で構成され、党の組織構造、選出方法、任期、各レベルの機能と権限などを詳細に規定している。末端から中央まで、グループ、支部、地方執行委員会、地区執行委員会、中央執行委員会の5段階の組織構造を設立する。レーニンは、組織が力を10培に高めると指摘した。第2回党大会の規約は、中国共産党組織制度の雛形を形成し、先駆的な重要性を持つものである。
3、「規律」に関する特別な章が初めて設けられた。9つの条文からなる「規律」は一つの章にして、党規約全体の中で最も条文の数が多く、全体の内容の3分の1近くを占めている。核心となる内容は以下のとおりである。一つ目は、中央政府との高度な一致を保ち、「下級機関は上級機関の命令を完全に実行しなければならず、実行しない場合、上級機関はこれを取り消したり再編成したりすることができる」と規定している。二つ目は、重党籍、兼職などの行為に対する拘束・監督管理を強化し、「党員は中央執行委員会の許可なしにいかなる政党にも加入してはならない」と規定している。また、懲戒規定はは初めて、「除籍」という懲戒処分タイプだけとなり、具体的な6つの行為を列挙した。
4、体系が比較的に整った会議制度と運用性が比較的に高い資金使途に関する規定が設定されている。各グループから全国代表大会への定期的な「六つの会議制度」を確定した。異なるレベルの党組織の会議開催頻度、幹部会議と党員会議を区別した。「経費」の特別な章では、職業や月給が異なる党員は1元から0.2元までの党費を支払う必要があり、「失業者と刑務所にいる党員はいずれも党費の支払いが免除される」ということが規定されている。党の収入については、「党内部の寄付」と「党外からの援助」の2項目が明確に定義されている。
5、民主集中制の原則という基本理念が初めて明確に具体化された。第2回党大会の規約に定められる「全国代表大会は党の最高機関である。全国代表大会の閉会期間中、中央執行委員会は最高機関である」、「党員は全国代表大会及び中央執行委員会の議決に絶対的に服従しなければならない」、「党の会議はすべて多数決によって決定され、少数者は多数者に絶対服従する」などは、個人が組織に服従し、下級が上級に服従し、少数が多数に服従し、全党が中央の組織に服従するという原則を初歩的に体現している。
第2回党大会の規約は、中国共産党が制定した最初の党規約であり、長く使われてきた党規約の枠組みと基本的体裁を確立し、その後の党規約の制定と改正に基礎と母体なとなるものである。これは、第2回党大会の規約の特別な歴史的貢献である。
四、第6回党大会はなぜ海外で開催され、会場はモスクワのどこにあるのか。
党の歴史上、第6回党大会は唯一海外で開かれた党の全国代表大会である。第6回党大会の開催は、約1年にわたる審議と準備を経た。国内では「白色テロ」が深刻化しており、会議を開催するための安全な場所を見つけるのは困難であった。その後まもなく、中国共産党中央委員会は、赤色労働組合インターナショナル第4回代表大会とコミンテルン第6回大会がそれぞれ1928年春と夏にモスクワで開催され、共産主義青年インターナショナル第5回大会もモスクワで開催されると知ると、中国共産党がこれらの大会に代表を派遣し、中国共産党中央委員会も共産主義インターナショナルから適時指導を受けたいと思っていたことを考慮して、共産主義インターナショナルの同意を得て、第6回党大会がモスクワで開催されることが決定された。
第6回党大会の会場について、国内では一般的にモスクワ近郊にある古い貴族荘園というあいまいな表現で書かれて、具体的な村や町の名称には「ズヴィニゴロド町」(モスクワ北西部)と「メーデー村」(モスクワ南部)の二つの説がある。このような状況を招いた原因は、主に周恩来、瞿秋白、李立三、蔡和森、王若飛などの第6回党大会に出席した多くの当事者が、第6回党大会を「モスクワで開かれた」、「モスクワ近郊で開かれた」とだけ回想し、詳しい地名を述べていないことである。その後、ある人が回顧録に「ズヴィニゴロド町」で開催されたと書かれている。
そのため、多くの国内の著述が、第6回党大会の開催地を記述する際、そのほとんどは「ズヴィニゴロド町」で開催され、一部では「メーデー村」で開催されたということもある。しかし、二つの説で呼ばれている場所の地名は異なるが、使用されている写真は同じで、実際には「メーデー村」の第6回党大会会場の三階建てで、しかも、この場所は当院の多くの同志が行ったことがある。
その後、努力した結果、「第6回党大会軍事委員会第1回会議における周恩来の報告議事録」(1928年6月27日)など、第6回党大会がメーデー村で開催されたことを明確に証明できる3点の公文書の原本が見つけた。これらの3点の公文書の落款はいずれも「モスクワ州ナロファミンスク地区メーデー村」で、時間が第6回党大会の開催期間である。
瞬く間に88年の歳月が流れた。中露両国首脳の直接の関心の下、ロシアの関係者の強力な支援を得て、中露両国の国民の共同努力によって、2016年7月4日、第6回中国共産党大会の常設展示館の竣工式がロシアモスクワで行われた。中国共産党中央委員会総書記、国家主席、中央軍事委員会主席の習近平とロシアのプーチン大統領は、第6回共産党大会会場の常設展示館の完成について祝辞を述べた。
第6回共産党大会会場の常設展示館は、これまで中国が海外での中国共産党の歴史に関する唯一の常設展示館であり、党創立95周年への贈り物と「一帯一路」の「中国名刺」であり、中露友好の歴史的証言となるものである。
五、第7回党大会では、毛沢東思想を党の指導思想として確立した。
毛沢東思想は、マルクス主義の中国化における最初の歴史的飛躍を実現した理論的成果である。毛沢東は第7回党大会において、創造と発展を遂げたマルクス主義を「香ばしいマルクス主義」、「生きているマルクス主義」に、現状に安んじて進歩しようとしなくて、そのまま取り入れるマルクス主義を「臭いマルクス主義」、「死んだマルクス主義」にたとえた。毛沢東は、「香ばしい」と「生きている」のマルクス主義だけが中国問題を解決できると強調した。党の歴史的経験から、マルクス・レーニン主義の基本原則を用いて中国革命の問題を研究し解決するには、実践の中で理論創造を行う胆力と迫力が必要であることが証明された。
文化大革命の時期において、毛沢東は中国社会の各階級に関する分析、農民運動に関する調査、農民問題に対する理論など、すべて独創的であった。土地革命戦争の時期において、毛沢東は軍隊を率いて井岡山に最初の農村革命根拠地を設置し、「農村から都市を包囲する」、「武力で政権を奪取する」という道を切り開いた。抗日戦争の時期において、革命実践の驚異的な発展及び歴史的経験と今までにない経験の絶え間ない総括に伴い、多くの毛沢東の思想が多方面に展開された。毛沢東は、中国共産党第6期中央委員会第6回全体会議での報告「新段階論」では、「マルクス主義の中国化」という命題を明確に打ち出した。『実践論』、『矛盾論」から、『中国革命戦争の戦略問題』、『持久戦論』、『中国革命と中国共産党』、『新民主主義論』、及び『われわれの学習を改革せよ』、『党の作風を整頓せよ』などまで、これらの著作は1930年代末から1940年代初めまでに、毛沢東のマルクス主義の中国化に関する思想が比較的完全な理論的形態を形成したことを十分に示している。
毛沢東思想という科学的概念の形成は、ある過程を経てきた。1941年3月、党の理論家の張如心は「毛沢東思想」という用語を使った。1943年7月5日、王稼祥は初めて「毛沢東思想」という概念を明確に使用した。同年7月6日、劉少奇は党創立22周年を記念するために書いた文章で、「毛沢東思想」、「毛沢東同志の思想体系」という概念も使用した。
第7回党大会において、党は創立以来、計り知れない苦難を経て得たマルクス主義の中国化の偉大な理論的成果を初めて党の指導思想として確立した。これは全党の思想を統一し、全党の行動を指導し、党の政治路線を実現するうえで、重要かつ深遠な意義を持っている。毛沢東はその後、党創立から第7回党大会まで、「わが党全体の認識は完全に統一された」と振り返った。
六、第8回党大会で、毛沢東は初めて「謙虚は人を進歩させ、傲慢は人を落後させる」と述べ、各先進国や各兄弟党、各国の人民から学ぼうと呼びかけた。
第8回党大会は、中国共産党の歴史において極めて重要な会議である。大会は、わが国の社会主義的改造を基本的に成し遂げた後の情勢を踏まえて、次のように指摘した。国内の主要な矛盾は経済、文化の急速な発展に対する人民の需要と当面の経済、文化が人民のこの需要を満たしえないという現状との間の矛盾に変わった。全国人民の主要な任務は、全力をあげて社会的生産力を発展させ、国の工業化を実現し、日増しに増大する人民の物質的・文化的需要を逐次満たしていくことである。第8回党大会開会の式辞で、毛沢東は「謙虚は人を進歩させ、傲慢は人を落後させる」という有名な論断を出した。
毛沢東は、中国共産党員が現在直面している任務が「農業後進国の中国を工業先進国の中国に変えること」であると指摘した。中国共産党の活動は大変で、経験も非常に不足している。そのため、毛沢東は「上手に学習しなければならない。先進国の相手であるソ連、各人民民主国家、世界各兄弟党、及び世界各国の人民から上手に学ばなければならない」と述べた。また、「国の大小を問わず、いずれの国にも長所もあれば短所もある」、「われわれは、謙虚は人を進歩させ、傲慢は人を落後させるという真理を常に忘れてはならない。と強調した。
毛沢東は、中国共産党員が新しい社会主義国家を建設するという大望大志を激情にあふれる言葉で表明し、参加者の心を強く響いた。この開会の式辞は2,500文字にも満たず、なんと34回の大きな拍手が送られた。「謙虚は人を進歩させ、傲慢は人を落後させる」という言葉は、こうして広く拡散され、人々の心に深く根付いている名言・警告となっている。
第8回党中央委員会委員、中央書記処書記に選出された李雪峰は、第8回党大会開会日に毛沢東が開会の式辞を述べたと回想していた。毛主席は開会の式辞にとても気に入り、会議期間中、「最初の開会の式辞は陳伯達が書いたものである。私はその原稿を読んでダメだと思ったので、自分で原稿を書いた。できたものを田家英に見せた。田家英はスローガンばかりで、ダメだと言った」と興奮気味に述べた。現在の開会の式辞は田家英が書いたもので、毛沢東はこれに比較的満足し、自筆で何度も重要な修正や加筆を行った。毛沢東は常に若者の役割を発揮することを重視し、若者が枠に縛られず、大胆に考え、大胆に実行するという精神を高く評価しており、田家英もその中の一人である。
七、第12回党大会では、「中国の特色ある社会主義」という命題を打ち出した。
1982年1月、鄧小平は第12回党大会の開会の式辞で、「われわれの現代化建設は中国の実際から出発しなければならない」、「マルクス主義の普遍的真理をわが国の具体的実際と結びつけ、みずからの道を歩み、中国の特色ある社会主義を建設することは、われわれが長期にわたる歴史的経験を総括して得た基本的結論である」と鮮明に指摘した。それ以来、中国の特色ある社会主義の建設は、全国各民族人民を一つにまとめ、改革開放と現代化建設を行う旗印となった。
中国の特色ある社会主義の建設という重要な命題は、中国共産党第 11期中央委員会第3回全体会議以降、党の方針・路線の発展を引き継ぐものである。1979年、鄧小平は「四つの基本原則を堅持する」という文章で、建設を行うにもかつて民主革命を行ったように、中国の状況に適応し、中国式の現代化の道を展開すべきだと指摘した。1979年、葉剣英は中華人民共和国成立30周年記念大会における演説で、わが国の建設における基本経験を初歩的に総括した。
中国共産党第 11期中央委員会第3回全体会議後、2年以上にわたって新たな模索を続けてきた結果、1981年に開催された中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議では、「わが党は中国の国情に適した社会主義的現代化建設の正しい道を逐次確立してきた」と宣言した。全体会議では採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」は初めて、この道の主な内容について10の方面から体系的にまとめた。主な内容は、わが国の主要な社会矛盾を正確に認識することや、社会主義の経済建設がわが国の国情から出発して、段取りを追い、段階を分けて現代化の目標を実現していくこと、様々な経済成分に適した管理制度と分配方法を実行すること、社会主義社会において階級闘争の問題を正確に認識して処理すること、政党の建設を強化することなどを含んでいる。
『歴史決議』はこの新しい道を指すのに、まだ「中国の特色ある社会主義」という概念を使っていないが、この道に含まれる基本的内容は、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議以前の党の社会主義に対する伝統的な認識と根本的に異なるものである。失敗と紆余曲折を経て、党が社会主義建設の問題に対して、1950年代にソ連の経験を「守るべき唯一の基準とする」と「さっぱり分からない」の時期とは違うのである。「第11期中央委員会第3回全体会議以来、わが党は経済、政治、文化などのすべての面で正しい政策を改めて制定し、新しい状況と新しい経験を研究し、一連の新しく正確な政策を策定してきた。第8回党大会に比べて、わが党は現在、中国の社会主義建設の法則をより深く理解し、より多くの経験を積み、正しい政策を実行する自覚性と堅固性がより強くなっている」と書いた。
中国の特色ある社会主義の建設という重要な命題は、第8回党大会以降の社会主義建設の問題についての成功と失敗の両方面の経験を総括するうえで提唱されたものである。毛沢東は、1956年の『十大関係論』の文章で、「ソ連に学ぶ」ということを提言し、国情に適応した発展路線を歩むという重大な課題を初めて重点的に提言した。第8回党大会では、中国の国情に基づいていくつかの経済建設の正しい方針を確定し、社会主義制度の下での改革問題の模索も始まり、順調なスタートとなった。その後の20年間、「左翼」の過ちや「文化大革命」の影響で、探索に重大なミスが生じた。長期にわたる歴史的経験から導き出された基本的な結論は、みずからの道を歩み、中国の特色ある社会主義を建設することである。
このような背景から、鄧小平は第12回党大会で「中国の特色ある社会主義を建設する」という重要な命題を明確に打ち出した。それ以来、各党大会の政治報告のタイトルには、「中国の特色ある社会主義」という概念が盛り込まれるようになった。
八、第18回党大会では、出稼ぎ労働者の代表が党大会に初めて登場した。
中国共産党大会代表の選挙は、昔から注目されている。
湖北省から来た党代表、建設労働者の余凱新は第18回党大会グループ討論会で、「他郷で放浪生活をしていた出稼ぎ労働者として、私が第18回党大会に参加できたのは、党の民主主義の証明である。北京オリンピックの期間中、海外の記者から出稼ぎ労働者とは何かと聞かれた。私は「身分は農民で、出稼ぎ労働者の仕事をし、農民の基本的な福祉条件を享受する」とまとめました」と全く感慨深げに言った。江蘇省から来た代表の程軍栄は、友人からのお祝いショートメッセージで第18回党大会の代表に選出されたことを知った際、「私は何億人もの出稼ぎ労働者の一人で、最終的に選出されたことに少し驚いたが、それ以上に非常に光栄に思っている」と述べた。
第18回党大会では、26人の出稼ぎ労働者の姿が特に注目されていた。
2011年10月、中央委員会は「第18回党大会代表の選挙に関する通知」を発行し、選挙活動に全面的な配置を行った。中央委員会は、第18回党大会の代表者数を第17回党大会より50人多い2,270人とし、全国40の選挙エリアで選出され、複数候補制選挙を採用し、複数候補制選挙の割合が15%以上とすることを決定した。
中央委員会の規定によると、代表の選出には「三上三下(3回の申請、3回の返答)」が必要な手続きである。江蘇省では、末端党組織が第1次で37,389人の代表候補者を推薦し、県・市・区の委員会と関連機関の党委員会が第2次で1,535人の候補者を選んで推薦し、市委員会と省直下の関連機関の党委員会が第3次で90人の予備候補者を省党委員会に推薦し、毎回の相談・推薦が下級の党組織と党員の意見を求めなければならない。
候補者予備名簿の公示は、党員への情報提供を確保するための重要な手段である。第17回党大会で初めて党内文書の形式で候補者予備名簿を公示することを規定したうえで、第18回党大会代表の選挙活動は公示内容をさらに充実させ、公示形式を改善することが明確に要求した。湖北省は、党機関紙やテレビなどのメディアを通じて代表候補者を公示した最初の選挙機関である。統計によると、合計11の省(区、市)が相次いでこの方法で候補者予備名簿を一般に公示している。他の選挙機関では、一般的に党内文書や党建設工作ネットワークを通じて候補者予備名簿を公示している。公示状況によると、一部の選挙機関は個別の代表者候補の調整が行われた。
2012年8月13日、第18回党大会の代表名簿が公式に公開された。党大会の代表は2,268人、特別招請代表は57人である。選出された代表の平均年齢は52歳で、そのうち35歳以下は114人で、5%を占め、第17回党大会より1.9ポイント高い。最年長の焦若愚は元北京市長で、1915年12月に生まれ、1936年に中国共産党に入党した。最年少の焦劉洋は1990年3月に生まれ、ロンドンオリンピックの女子200mバタフライで優勝したばかりで、2008年に中国共産党に入党した。二人の年齢差は74歳、党歴の差は72年であり、これもわが党が代々受け継がれ、繁栄し、後継者がいることを一つの側面から表している。
選挙結果は、第18回党大会代表の構成上の鮮明な特徴を浮き彫りにした。選出代表のうち、労働者党員は第17回党大会の51人から169人に増え、代表総数の7.4%を占め、第17回党大会より5.1ポイント高い。そのうち、省(区、市)と中央企業系統(北京在住)の選出代表のうち、労働者党員が10.4%を占め、第17回党大会より7.1ポイント高い。
これらの労働者党員の代表は、エネルギー採掘、鉄鋼製錬、機械製造、紡織・醸造などの業界からの産業労働者と、交通運輸、都市衛生、金融商業貿易などの業界からの運転手、営業員、ウェイターがいるほかに、国有大手企業の模範労働者、非公有制経済組織の熟練技術者などもいる。
改革開放以来、出稼ぎ労働者は労働力の重要な一部となり、労働力に新鮮な血液を注入してきた。第18回党大会では、26人の出稼ぎ労働者が党大会に初めて登場した。党大会に初めて集団で登場した出稼ぎ労働者代表は党大会の歴史と党の歴史に、もっとも素晴らしい印を残すだろう。
(作者:中共中央党史・文献研究院第二研究部 李穎)
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